11月 22

子供への感染予防作戦!部屋にはおばけ(インフルエンザになった父)がいる

私は小学低学年と幼稚園の小さい子供2人を持つ父親です。去年の年末、会社から帰宅中に高熱を発症し、次の日に病院で検査を受けると「インフルエンザ」と診断されました。

大人でも耐えられないしんどさのインフルエンザに子供がなってしまうと大変です。そこで、嫁さんと相談し、病人の僕は子供部屋の一室に引きこもり、子供が入れないようにしました。

家族感染予防!作戦名「部屋にはおばけがいる」

おばけ

その時にとった作戦が「子供の部屋にはおばけがいる」です。とりあえず、部屋のドアも開けてほしくなかったので、ドアを触ったらおばけは気がつくから出てきてしまうと伝えてもらいました。

その結果、僕のインフルエンザが完治するまでの5日間、一切子供は部屋に入ろうとしませんでした。小学3年生の姉に聞いても、普通に信じていたようです。

5日目に、嫁さんが「ついにおばけを解放する時が来ました」というと「キャー」と言いながら逃げて行ったのです。普段は落ち着いて、しっかりしていると言われているのですが、声を聞くだけでも信じていたことがわかりました。慌てて逃げまわってました。

不精髭に顎鬚で顔の輪郭がわからない僕が出てくると、その姿を見て「キャー」と。えっ?お父さんだけど!と言いたかったのですが、おもしろかったので、白目にして脅かしてみました。

泣いている子供

期待通りというか期待以上で、下の子供は泣き出してしまいました。さすがにかわいそうになったので、お父さんだよというと、まずは頭にクエスチョンが見えました。そのあと、かなり怒られました。

子供の部屋に入り、最初に言った言葉が、「くさい」でした。確かに5日間お風呂に入ってないけど、窓はあけて風の出入りはさせてたはずなのに・・・。脅かした分のお返しか、ずっと加齢臭くさいと言われています。

今度また同じように子供と接触できないような病気になった時には「どんな作戦をしてやろうか」と夫婦で今回の話もしながら笑い合いながら考えています。そんな病気にはなりたくありませんけどね。

11月 09

アトピーに悩まされる日々

体をかく男性

私は重度のアトピーです。幼い頃から皮膚が弱く、耳の下が切れたり、関節部分が荒れたりと、身体全体が酷くボロボロになっています。当然ながら、皮膚科に行くとアトピーと診断されました。

私のアトピーはかなり強いアトピーのようで、毎年決まった時期になると症状がひどくなります。その度に皮膚科に行き毎回同じ薬をもらう生活をずっと続けてきました。

放置しているとますます酷くなるアトピー

中学生の頃になると、お尻などにも症状が現れ始め、丁度思春期なのでお尻を皮膚科で見てもらうのは恥ずかしく放っておいたら、益々症状が酷くなり気が付いたら猿のように真っ赤に染まったお尻になっていました。

これはさすがに大変だと思い病院に行き診てもらいましたが、ずっと放置していたため、赤身が中々取れず、現在も少し色づいている状態です。あの時もっと早く病院にいってちゃんとした対応を取っておけば・・・と後悔しています。

その頃の私は寝ている時に無意識によく体全体を掻きむしっていたみたいで、皮膚が荒れてしまったようなんです。掻く音がうるさく何度も両親から注意されましたが、何せ寝てる時に無意識に行っているので対策のしようがない状況でした。

完全に掻く癖が付いておりどうしようもなかったです。それに皮膚科に行くのも面倒になり放置した結果、赤身がかった皮膚になりました。もう完全に治ることは無いと思っています。

諦めずに薬を塗り続ける事が大事

アトピーの塗り薬

アトピーという病気は、真剣に向き合って定期的に皮膚科に行き薬をもらう事が大事だと思います。もちろん、薬を貰っても使わないと意味がありません。

私は面倒な事が嫌いなので1日2回の塗り薬を続けてきませんでした。本当に皮膚が痛くて眠れない時だけ薬を塗り症状を落ち着かせる、といった感じです。

しかしそんな私も今は毎日欠かさず塗っています。面倒で塗らずに症状が悪化し、また皮膚科に行く事になるとお金ももったいないし、何より自分の身体に悪いです。皮膚だからといって馬鹿にできません。皮膚が荒れそこから色んな黴菌が侵入してくると今度は身体全体を蝕んでいきます。こうならないようアトピーという症状と戦いながら毎日薬をしっかり塗り続ける事が大事だと思っています。

10月 26

急性肝炎になった時の思い出

今からかなり前になりますが、当時付き合っていた彼と海外旅行へ行き、旅行から帰ってきて半月ほどが経った時の話です。

海外旅行の疲れはとっくに取れているはずなのですが、体がだるくなり始めました。まだまだ若かったので「そのうち治るだろう」と高を括っていたのですが、徐々に体に変化が現れ始めました。

急性肝炎の初期症状

まず、だるさの次は顔のむくみ、特に目の下がむくんできました。そして徐々に手指にむくみが現れ始め、顔色が悪くなり始めました。

さらに1週間ほど経った時には、普通に歩くのも辛くなり、周辺の何かに捕まりながらではないと歩けない状態になってしまいました。

決定的だったのは、会社の先輩(なんでもズケズケいう男性)が私の顔を見て「どうしたの!?その顔。浮腫んでるよ」と言ったことでした。

いつもならば怒るのですが、その一言で他人にもわかるほどなのだとわかり、すぐに行きつけの病院に行きました。

肝炎の検査

そして肝臓が腫れているので念のため点滴をしてもらい帰宅しました。が、翌朝、検査結果が出て劇症肝炎になる一歩前なので即入院ということになりました。

原因は海外旅行中のウイルス!?

ウイルス性の急性肝炎という診断で、数値が以上に悪かったので絶対安静を言い渡されました。入院時の検査をするうちに会社の事や今後自分がどうなってしまうのかという不安からエコー中に泣いてしまいました。

看護師さんが優しい方で「この病気になったのは、今は治療に専念して、ゆっくり休みなさいという事を神様から言われてると思って」と励まされ少し気が楽になった記憶が今でもあります。

病室

その後、退院まで約2ヶ月ほど、朝晩二度の点滴、服薬、そして食事療法に安静という方法で徐々に数値を下げる事ができました。

自宅から3分ほどの病院だったのですが、設備が古い上に悪く、お風呂は週に二度ほど、しかもそのお風呂は入院後数日で故障。唯一の楽しみだったお風呂がなくなり、仕方なく病院前の美容院に行き洗髪してもらったこともありました。

ウイルス性だということでしたが、どこからの感染かはわかりませんでした。が、ひょっとすると海外で食べた食品に付いていたウイルスかもしれないと言われました。もしくは、肝炎の人と濃厚なキスをしたとかはありますか?とも聞かれて驚きましたが、もちろんありません、と答えました。

とにかく病気にならないように予防医療というものの重要性を実感した数カ月でした。その後はストレスを溜めないようにし健康に過ごせることを心がけています。

10月 18

百日咳にかかってしまいました

小学生の時に百日咳にかかってしまいました。熱はなく、咳だけです。咳が出だすとなかなかとまらず、息が出来ないために顔が真っ赤になってしまいます。しかし、咳の出ていない時はわりと元気なので、まわりに理解してもらえずとても辛い思いをしました。

百日咳による辛い思い出

咳が止まらない子供

信号が赤に変わりそうになって、急ぎたくても走ると咳き込んでしまいます。集団登校のリーダーは集合時間より遅れて来ては、走って学校へ行こうとするのでとても辛かったです。咳がとまらなくなるから走りたくないと言っても、「遅刻しちゃう」「怒られたらお前のせいだ」と自分が遅く来るのを棚に上げて攻められました。

体育の授業も途中で苦しくなってしまい、うずくまってしまうこともありました。しかし、他の時は熱もなく、食欲もあるので、さぼっていると思われることも多かったです。先生もなかなか理解してくれず、ケガ続き、病気続きだったので、「またやってる」くらいにしか思われませんでした。

先生の一言でクラスのみんなも理解が出来たと思うので、もう少し病気に対して理解を深めて欲しいと思いました。

ぜんそくと勘違いされやすい

百日咳の名の通り、咳が出なくなるまで100日くらいかかりました。乾いた咳だけれど、しつこく、出始めるととまらないのです。まわりにはぜん息の子も多かったので、勘違いされることもありました。

医者の診断

病院に行ってもぜん息の疑いをもたれ、百日咳と診断されたのもずいぶん経ってからでした。薬もずっと飲み続けなくてはならず、つらかったです。

咳をすると体力を消耗してしまうので、疲れやすく、学校から歩いて帰るのも辛い日もありました。早く寝ようと思っても、布団に入ると咳き込んでしまうことも多く、寝ていても起きていてもラクではない日々が続きました。

今では予防接種が一般的になっているようですが、私が小さい頃は予防接種はなかったのかもしれません。赤ちゃんや小さい子供にうつしてしまうと重症化することもあると聞いたので、毎年恒例の夏休みに親戚の家に行くこともできませんでした。生まれたばかりのいとこがいたからです。あんな辛い思いは誰にもして欲しくないと思います。

9月 30

睡眠薬と生活改善で不眠症に打ち勝つ

病気と言うのかは分かりませんが、私は重度の不眠症でした。

不眠症

学生時代からずっと不眠症で、「眠ければ学校で寝よう」と眠れない夜を読書でやりすごしていたのですが、基本的に学校でも眠れません。

学生時代はそれでも何とかなったのですが、仕事をやるようになったら大変です。眠れない次の日は、頭がぼーっとして仕事になりません。不眠については本当に切実に困ってました。

睡眠外来を受診

そこでまず、睡眠外来のある病院で診察を受け、薬によって調整することで解決しました。

ただ体に合う薬というのでしょうか、効果のある薬を見つけるのには苦労しました。というのも、家で服用するとウトウトするのですが、病院といういつもと違う場所では緊張感が違うのか、うとうともできず、ずっと一日(ほんとに丸一日)ぼんやりしてました。

淹れたてのコーヒー

薬物治療と平行して、生活習慣の改善も試みました。まずコーヒーは飲まないようにすること、そして昼間はなるべく部屋の外に出て布団には入らないことなど。お医者さんが良いと言う方法は全部やってみました。

午前4時とか5時に目が覚めてしまっても絶対に布団の外に出ない(トイレなどは例外)、夜は決められた時間に薬を飲んで横になるなど、すべてのことをやった結果、なんとか夜と言われる時間に眠り、朝と呼ばれる時間に起きられるようになりました。薬のおかげかもしれませんが。

医者の診断

不眠症というのはとても辛いんです。症状は基本的に眠れないだけなのですが、人によっては命にかかわることもあります。

眠れない人は、必ず病院にかかったほうが良いです。心療内科やメンタルクリニックなど。怖いところではありません。

そして、睡眠薬は決して悪い物ではありません。当然、用法・容量を守って適切に服用しなければなりませんが、不眠症改善には必須のツールだと個人的には思っています。薬に頼る事に嫌悪感や恐怖感を持っている人もいると思いますが、経験上、むしろ頼るべき物だと思います。

もちろん、お医者さんにそもそも薬を服用するのかという点から相談するようにしてくださいね。当然、薬を使用せずに不眠症を解決する方法がベストなわけですから。

:睡眠薬の服用についてはあくまで個人的な意見です。服用を考える場合は、必ず医師に相談の上、用法・容量を守り、正しく使用するようにしてください。

9月 15

咳だけが出続ける!?もしかしたらマイコプラズマ肺炎かも

今から15年ほど前になります。あるとき、喉が痛いわけでもないのに咳が出ることが多くなりました。

「軽い風邪かな」と思い、市販の総合風邪薬や咳止めの薬を飲んでいましたが、いつまでも症状は治まりません。熱もないし、鼻水もでない。咳は出るのに、喉は痛くないし、声がかすれるわけでもない。

少し不安を感じ始めたので、近くの内科医院に行きました。

私の平熱は35.5℃くらいの低めの体温です。病院で熱を計っても36℃には届かない。

その時は2月頃で「花粉症からくるアレルギーが喉に出たのかもしれない。」と言われ、アレルギーの咳止めを処方してもらいました。

症状は治まらず・・・

ですが、5日経っても症状は治まらず、以前よりも咳込むのが酷くなってきたので、再び病院へ。毎日熱は計ってもいましたが、いつも36℃以下。

医者の診断

医師に、今度は気管支炎か喘息かもしれないと言われて、前回とは違う咳止めの処方薬をもらいました。

それでも一向に症状は良くならず、咳が一度出始めるとずっと咳が止まらず、呼吸も苦しくなるくらいになっていて「さすがにこれはおかしいぞ」と家族も心配になるほどでした。

特に、夜に咳が出ると眠れなくなり、体調にも影響がでてきてしまいました。

別の病院で診察を受けると「マイコプラズマ肺炎」である事が判明

そこで今までの病院とは違う病院で診察を受け、そこで初めてレントゲンを撮ったら、肺の部分が真っ白になっていて、診察した先生も「よくここまで我慢できたね。なぜもっと早く来なかったの?」とあきれ気味に言われました。

レントゲン撮影

その先生によると、マイコプラズマ肺炎は普通の肺炎よりも見分けるのは簡単ではないけど、レントゲンを撮ればすぐに判明できるらしいです。

ただ、患者さんは咳が出るだけで、熱は出ないから、そんなに深刻には考えない人が多いらしい。

肺炎なので、感染も考えられるということで、その日から症状が治るまでは安静にするように言われて、仕事も休むことになりました。

抗生物質を処方されて、自宅で1週間安静にしていたら、無事に完治しました。

結局、花粉症からくるアレルギーでもなく、気管支炎や喘息でもなく、もっと重症な肺炎だったのです。それ以来、ちょっとした風邪の症状でも、体に異変を感じたら、すぐに病院で診察を受けるようにしています。

8月 25

見逃さないで!精神疾患患者のSOS

私は三年前から現在に至るまで精神疾患を患っています。

病名は適応障害から始まり統合失調症、境界性人格障害、躁鬱病、と症状が変わるごとに違う病名がつけられてきて、今現在でも自分が何の病気なのかハッキリわかっていません。

現在は少し落ち着いており、毎晩寝る前に睡眠薬を1粒だけ飲んでいます。

主な症状としては以下のような感じです。

対人関係がうまく図れない
薬がないと眠れない
少しでも怒られたり屈辱的なことを言われるとパニックを起こして泣き叫んでしまう など

その他にもたくさん症状がありますが、昔に比べたらだいぶ落ち着いてきたと自分では思っています。

精神疾患を患っている人の本音~話を聞いて欲しい~

二年前は希死観念が凄く強く、リストカットや大量服薬を繰り返し、救急で運ばれ生死をさまよったこともありました。その時はただただ未来が不安で、私は結婚することができないのではないか、孤独死するのではないか、働けないのではないか、親が死んだら私はどうすればいい、などずっと不安でした。

今考えたらそんなに焦らなくても大丈夫だったと思うのですが、当時はそのような余裕がなかったのでしょう。というか無かったです。

それとSNSで同じ病気で悩んでいる子たちと仲良くなり、自慢のようにリストカットの写真を見せたり、一緒に大量服薬をしたりしていました。ほんとに情けないですよね。

今もSNSをみると昔と変わらないやり取りがされているのをよく見ます。

SOS

私もそうでしたが、どこかに助けてほしいというメッセージが隠れているのだと思います。

1人じゃないよ大丈夫だよって言ってほしいのだと思います。

ですが、病院の先生方の中には、そういったメッセージは放っておけと言う人がいますよね。構ってほしいからそのような事を書くんだ。言ってくるんだ、って。

でも私は放って置くのでなく、だからと言って過剰に反応するのでもなく、いつも通りになにやってんのよ!と落ち着かせることが大事だと思いますし、できるのであれば電話もしくは会って話を聞いてあげてほしいです。

自分のことなんか誰も必要と思っていない!と思い込んでいる事が多いので、そんなことはないよと言ってあげて欲しいです。

今でも数多くの精神疾患をもった患者さんがいますが、程よい距離を持ち、見離さないで治るまで一緒にいてあげてほしいし、私も治るように少しずつ頑張りたいです。

8月 11

卵巣嚢腫が検査で判明!摘出手術を受けるために入院

診察を受ける女性

当時、私は自覚症状はなかったものの、普段から下腹部の左右差のある膨らみが気になっていました。ある日、カンジダ症になり婦人科を受診した際、ついでに内診及び超音波検査を受けることになりました。結果は、右の卵巣が10センチ大の良性の腫瘍で膨らんでいました

先生からは「その重みで卵管が捻れ、血流が遮断される危険性があるので手術を受けた方が良い。最悪、卵巣ごと摘出しなければなりません。」と言われました。

それを聞いた時に、おそらく開腹手術になるだろうからお腹に傷が残るだろうという予測、そして片方の卵巣だけで将来の妊娠に影響はないだろうかという不安とショックがありました。

卵巣嚢腫の摘出のために入院・手術

それから1ヶ月して手術を受けるために入院しました。執刀医からは開腹手術をします、と宣言されました。

手術前日は、傷1つない腹部を見るのはもうこれで最後だろうという思いから、トイレでこっそりと自分のお腹を携帯で撮影しました。

手術当日、覚悟は決まっており「腫瘍だけ除去してもらって両方の卵巣が温存できますように」と願いながらope室へ入室しました。

手術

硬膜外麻酔とマスク吸入後は数秒で意識を失いました。

手術が終了したら、先生から「腫瘍だけ取り除くことができましたよ。」と言われホッとしました。母親も面会に来てくれて心強かったです。

但し、全身麻酔下での手術だったので、直後は息が苦しく数時間は酸素マスクをし続けました。

この時、「楽に呼吸ができるというのは幸せなことなんだ、そしてこうやって手術を受けられ卵巣を温存できたのも奇跡なんだ」と全ての事柄に感謝したい心境になりました。

手術当日は終日ベット安静で尿道カテーテルが挿入されていました。この時、「自分の陰部を他者に見られていたんだな」と思うと恥ずかしい気持ちになりました。

病室

翌日からは担当の看護師さんから歩く練習をするように促されました。この時期が創部の痛みがMAXの状態であり、ベットで寝返りを打つのもやっと、そして病室からトイレへ行くにもかなり時間がかかりました。もちろん、排便は力まないといけないので創部に痛みが走ります。暫くは便意を我慢したものです。

この頃も「痛みがなく過ごせる日常がどれほど素晴らしいものか」という悟りの境地に達していました。まさに病から教訓を得るといった感じです。

日数が経過するごとに痛みも次第に軽減し、とうとう抜糸の日(初めて自分の傷口を見る機会)が来ました。

先生と看護師がペアとなって、創部を閉じるための医療用ホッチキスを1つずつ外していきます。この時もちくりと痛かったです。

初めて傷口を見たとき、複雑な気持ちになりましたが、これはもう仕方がないことだと割り切ることにしました。

今でも、その傷口はケロイド状になって痕が残っています。この痕を見る度に当時の記憶が蘇ります。また、当時、担当してくださった看護師さんが優しく素敵な方で入院中は心の支えになりました。

同時に「健康でいることの有り難さ」を痛感しました。この出来事がキッカケで社会人から専門学校へ通い、現在、看護師として働いています。

7月 18

【重い生理症状】医師が変わったことで私の人生も変わった

私は若い時からずっと生理症状の重さに悩まされ続けてきました。

生理痛

日常生活に支障をきたすことも多く、一度婦人科へ行って検査をしてもらったものの、特に異常は見つからず・・・。月経前緊張症ではないかと診断されて、漢方薬を飲んでいましたが、改善が見られず医師と相談の末に服用を止めました。

その後も生理の重さは変わらず、年齢を重ねれば重ねるほどに、若いときとは違った症状に悩まされるようになりました。

別の医師に相談しても・・・

30歳を過ぎてからは子宮頸がん検診のため、近所の婦人科に行くようになりました。

その際、問診時に、医師に生理症状の重さを伝えて「何とかならないものか」と相談したのですが、血液検査をして貧血の数値が出なければ、特に治療するようなものではない、と言われてしまいました。

かなり年配の女性医師でしたので、もしかしたら生理とはそういうものだという意識が強かったのかもしれません。

大袈裟に言っているわけではなく、こんなに毎月ひどい症状に悩まされているのに、それを訴えても分かってもらえない辛さが増して、そのうち検診に行かなくなりました。

子宮腺筋症である事が判明

それからしばらくして、新しい仕事を始めたり、生活に様々な変化が起こったとき、やはり健康に過ごしたい気持ちが強くなり、生理症状の緩和のためにもう一度婦人科へ行ってみようと思うようになりました。

産婦人科医

そして以前と同じ婦人科へ行きました。そうしたら医師が変わっていて、年配の女性医師ではありましたが、私の生理症状の辛さをよく聞いてくれて、もう一度検査してきちんと子宮の状態を調べることを勧められました。

結局、検査をしたところ「子宮腺筋症」であるらしいことが分かりました。ひどい月経痛や過多月経など私に当てはまることが多く、医師の説明に納得しました。

一度は、閉経するまであと十数年我慢すればいいと思っていた私でしたが、きちんと治療方法がある症状であるならしっかり病気と向き合っていこうと前向きに考えられるようになりました。

でも、もしあのまま医師が変わらず「生理が重いのは仕方がない・生理とはこういうもの」と、自分に納得させるように思い込んでいたら、どんどん症状が重くなっていったと思います。私自身、他の婦人科へ行くことも考えずに諦めていましたから。

私の話をよく聞いて下さった医師には感謝しかありません。同時に、いくら医師に治療すべきことはないと言われても、自分の体があまりにも辛いようなら、体からの悲鳴に耳を傾けてあげないといけないと思いました。自分の体の声を聞いてあげられるのは結局自分しかいないのですから。

7月 08

難病になって生き方について考えるようになった

以前から健康診断の度に「尿たんぱくの数値」が出続けていましたが、その数値が出始めた頃はまだ体調もそこまで悪い感じもしなかったのです。

が、習慣でもあった成分献血(赤血球以外の成分を献血する方法)がいつもであれば数値が余裕で足りたのですが、それが急に出来なくなってきてしまいました。

そしてその頃から日々の疲れが抜けなくなっていき、尿が異常に泡立つようになり、地元の医院からこの状態では非常にまずいと言われ、慌てて紹介状を書いて頂きました。

IGA腎症という難病に・・・

精密検査の結果、担当の医師から「iga腎症と言う難病の疑いがある」と言われて、明日にでも入院の手続きをして欲しいと言われました。以前居た会社を退職してから在宅ワーカーとして働いていたので、迷う事なく手続きをする事にしました。

診察

腎臓の状態は楽観視出来る状態では無く、基準値を大幅に上回っていると言う事が告げられました。段階としてはハッキリと難病だと認める為に腎組織を摘出する腎生検、ステロイドパルスと呼ばれる点滴による投薬、そして最も辛かった扁桃腺摘出で合わせて計5回の入院とそれ以外の通院などもあり、家族のサポートが無ければ心細かったと思います。

最初の腎生検は局部麻酔だったので痛みこそ無かったのですが、針が入っていく感覚が伝わってきたので少し怖かったです。生検自体は無事に終わりましたが、その日は寝返りがうてず、とても辛かったです。

ステロイドパルス投薬は、数ヶ月毎に三日間行うのですが、ただの点滴だったので比較的ラクでした。

手術

そして扁桃腺摘出手術を受ける前は「死ぬかも知れない」と言う恐怖を感じました。初めての全身麻酔手術だったから、というのも有ったと思います。

麻酔がかかった時、「死ぬ時ってこんな感覚なのかな」と思うと、いつの間にか手術が終わっていました。

その後2週間程入院していましたが、毎日流動食である事と食べる時の喉の痛みによる食欲減退により、体重が5kg程落ちてしまいました。

先日になってやっと入院過程が終わり、通院のみになったのですが、20代で半年に5回も入院する事になるとは思いもしませんでした。

医療費は保険と難病申請によりほぼトントンになり、お金については問題無かったです。

この病気になってから食事も制限がかかりましたが、いかにいままで食生活に無頓着だったかを思い知らされました。生き方や考え方を変える良いきっかけになったのは、不幸中の幸いと言えるでしょうか。

6月 29

自律神経と胃腸の関係

以前より食事を少ししか食べられない、食後すぐに下してしまう、ということが2ヶ月ほど続きました。だんだんと揚げ物を食べると胃がもたれてしまう、2杯ほどお酒を飲んだら気持ち悪くなってしまうようになりました。

胃もたれで悩む男性

そんな風になったことは今まで無かったのでおかしいと思い、近くの胃腸科専門の町医者へ。そこではおそらく胃炎か何かだろうと言われ、簡単なお薬を処方されました。

が、お薬を飲んで一週間経っても改善されるどころか悪化し、食事はまったく摂れなくなり、常に胃痛を感じるように・・・。

大きな病院でも診てもらいましたが、ここでも胃の不調の原因は分からず・・・。胃カメラ・CT検査もしましたが、特別悪いところは見つかりませんでした。それどころか、胃はキレイだと言われる始末。

不調の原因は「機能性ディスペプシア」

結果、自律神経がうまく機能せずに体に不調をきたす「機能性ディスペプシア」だと診断されました。

私の場合、胃の動きが極端に悪くなっているせいで胃がもたれるのだろうと。胃に何も入っていない時に胃酸によって胃痛を感じるので、食事を摂れなくなってから胃痛が酷くなったのではないかと言われました。

医者の診断

今は患者数も多く、認知されるようになりましたが、私が病院にかかった頃はまだそのような症状がでる「病気」だと認定され、病名がついたばかりの頃でした。運が良かったのは、診てもらった病院にその病気の専門医がいたことでした。

その先生に直接診ていただいたのは、症状が出てから2ヶ月ほど経った頃でしたが、その他の先生方も機能性ディスペプシアについての知識があったので、病気の症状について丁寧な説明があり、適切なお薬を処方してもらえました。

ただ、自律神経が正しくなるのを待つしかない病気なので、すぐに元の量の食事を摂れるわけではありませんでした。症状が出て2ヶ月ほどはほぼ寝たきり。少しずつ動ける時間を増やし、食事の量を増やしていましたが、4ヶ月たったころには体重が10kgほど落ちてしまいました。

6月 16

母を失う恐怖~偶然が母の命を救った~

脳内出血

還暦を迎えたばかりの母が突然「脳内出血」で倒れました。

いくつもの偶然が重なり、大事には至らず、今はすっかり回復しましたが、あの時一つでも何かがズレていたらと思うと、今も怖くて震えてしまうことがあります。

そんな私と母の話です。

脳内出血は処置までの時間が重要

私と父は同じ職場で働いています。その日、父は会社に携帯を置いて出かけていました。

そんな時、突然私の携帯がなりました。

1つ目の偶然

机の上に置かれた携帯

普段であれば、私は携帯をカバンにいれており、仕事中に携帯を見ることはありませんが、その日に限ってなぜかデスクに持ってきていました。これが、後から思い返せば一つ目の偶然でした。

デスクに置いていた携帯を何の気なしに手にした途端に母からの着信。

仕事中と分かっているのにかけてくるなんて、どうしたんだろうと思い、出てみると、声にならない声で「助けて・・・」という母の声。「今すぐ帰ってきて。」というのが精一杯のようでした。

どうやら先に父の携帯に連絡をしたようでしたが、父は出なかったため私にかけてきたのでした。

私は実家から高速を使って1時間以上かかる場所にいました。

父とは連絡がつかないため、もちろんすぐに帰ろうとは思いましたが、声の様子から、

「もしかしたら1時間以内に死んでしまうかもしれない」

という恐怖を感じました。

そのため、私が帰っている間に、近所の人に様子を見に行ってもらおうと考えました。

ここで、二つ目の偶然です。

2つ目の偶然

父が携帯を置いて外出していたため、近所の人の携帯番号が入った父の携帯を使うことが出来、結果近所の人に母の様子を見にってもらうことが出来たのです。

心配そうに電話をかける男性

その後、近所の人からの連絡で、県内の大きな病院に搬送されること、意識もあるし手足も動くこと、ただ嘔吐がひどいということを聞きました。

私は結局自宅には戻らず、出先の父を拾い、搬送される病院へと向かいました。

その病院で聞かされた母の病名は「小脳出血」。

搬送された際の出血は1㎝以下でしたが、もしこれが3㎝以上まで広がれば手術の必要があると言われました。

搬送された日から丸1日血圧を下げる薬を投与した結果、出血は治まり、手術の必要はなくなりました。

お医者様からは、「発見が早かったのが何よりだった。発症から1時間以内が勝負だった」とのお言葉をいただきました。

3つ目の偶然

後から知ったことですが、私が父の携帯を使って連絡を取った人は、本来なら、その日から2泊3日で旅行に出ていたはずだったそうです。

それが、急きょ取りやめになったそうで、もしその人が旅行に行ってしまっていたら、母の様子を見に行ってもらえなかったのです。これが3つ目の偶然だったのです。

彼がいなければ、母の電話から1時間以上経過した後で私が家に着き、その後救急車を呼んで…といったことになっていたと思うのですが、その1時間の間に母を失っていたかもしれないのです。

思い返すと様々な偶然が重なって助かった母の命。

どれか一つでも欠けていたら、私は母を失っていたと思います。母を失うかもしれないと感じたあの恐怖・・・。あの恐怖だけはもう感じたくありません。

母が元気になった今、母と一緒に過ごせる時間を大切にしたいと感じています

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